2014年4月6日日曜日

スケールに基づくアドリブの弊害



ジャズのアドリブにおいては、いろいろなスケールを使用できる。それらをすべてミックスすれば、結局どんな音を使ってもいいことになる。
また、LCCのように「結局どんな音を使ってもいい」といい切っているものもある。
チャーリー・パーカーも似たようなことをいっていた。
しかし、どの音を使うかということではなく、どのように使うか、が重要であることはいうまでもない。

青二才のころ、マイナー曲を弾いていたら先輩にいわれた。
「ドリアンならドリアン、ブルーススケールならブルーススケールだとわかるように弾け、特定の音を強調するとかして。何がやりたいのか伝わらないのはダメだ」

まったくそのとおりである。
別に、ブルーノートを思い切り強調しろという意味ではない。ただ、ドリアンとして6度の音を意識することで、ドリアンの世界が生まれ、聴いている人が「お、なんだか不思議な感じだな」と思えることが重要なのだ。そのためには「使わない音」を上手に選択する必要がある。
スケールにある音をすべて使うのは、ジャズのアドリブではない。

それから、こういうとモード以前の考えに凝り固まっていると誤解されるかもしれないけど、アドリブ方法論をスケールだけで考えるのは好きではない。

スケールだけで考えると、すべての音が等価となり、ハーモニーがなんだろうと同じプレイということにもなってしまう。これは代用スケールでとくにありえることだね(別の主音のメロディックマイナーと同じ、とかいうやつね)。
極端な例をいうなら、普通にC、Dm、G7という進行のときに結果的にはすべてCイオニアンでいいわけだけど、そう考えるとまったくつまらなくなってしまう。Dドリアン、Gミクソリディアンというように中心の音、コードトーンなどを意識しなければスケールを使用するのがどうでもよくなってしまう。

でも、コードがあってだからこそモード等があると考えれば、ちゃんと音が意味をなしてくる。ドリアンもバックに流れるコードがあり、そこに6度が生きてくる。サブドミナントのmでいくら6度を弾いてもドリアンらしさはわからない。あれはmにおける6度だからおもしろいのだ。



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