2016年10月15日土曜日

ヤリタガリ



ずっと以前、ライオネル・ハンプトンのビッグバンドのライブを見たとき、指揮をしていたハンプトンがピアニストのところに行って一緒に連弾したりドラマーと交代したりして観客を楽しませてくれた。これがエンターテイメント性ってことだなと感心したものだ。

ハンプトンがいろいろな楽器ができるのがすごいから客が喜ぶのではなく、楽しませてくれるから喜ぶのだ。これを勘違いしているひとがときどきいる。サックスの持ち替えはコルトレーンみたいに必要があるならそれはそれでいい。たしかにソプラノからバリトンまではそれぞれ特色がある。トランペットとフリューゲルはまあたしかにちがうけど、そこにさらにコルネットをからませると「それはいらないんじゃないか」とおもう。

まあここまではいいのだが(いや、よくないが)、たとえば管楽器で自分のソロがおわるとギターを弾きはじめ(ちなみにコードしかできないw)途中でパーカッションに持ち替えるなどというのは「俺ってなんでもできてすごいだろ~」という自己顕示しか感じられない。結果、どれもハンパにみえるのだ。1つのステージで10以上の楽器を持ち替えるひともいるけど、そこまでくると運搬の大変さだけである意味偉大である。

しかし世の中にはいろいろな楽器持ち替えるけどどれもハイレベルという人もいる。そういうひとは持ち替えに無理がなく必要性が感じられ、「どうだ~!」という雰囲気がまったくない。うーん、音楽ってのは内面がにじみでるもんだなあ。




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