ジョアン・ジルベルトはギターがうまい。ヘタだとおもっているひとはいないだろうけど、彼のギターはボサ・ノヴァの伴奏だけではないのだ。ジョアンの作曲はあまり多くないがインスト曲の「ボンファに捧ぐ」は本人のオリジナル録音通りにギター1本(+パーカッション)でやろうとするとなかなかの難曲。クラシックギターをやってきたひとにはそれほどでもないのかもしれないけど。
まあそれはいいとして、おいらがいいたいのはジョアンは裸の王様になっているということ。大御所すぎてまわりが彼に批判的なことを言えなくなっている。それは何かというと、あの小節が短くなったり長くなったりすることだ。これは以前にもいったような気がするね。
初期のジョアンはどんなにメロディを崩してもギター伴奏は崩れずピタッとはまった演奏をしていて、それが彼のすごさのひとつでもあった。
ところがこのアルバム↓
このアルバムあたりからメロディを崩した尺にあわせてギターもいっしょに合わせるようになり、なんとも奇妙なフラストレーションがたまることをやりだしたのだ。
はじめて聴いたとき「おや?」とおもった。あまりにも絶妙な崩し方のせいで尺が詰まったように感じたのかなと。音を伸ばすべきところを伸ばさずすぐにつぎのフレーズに行くというのは聴き手に欲求不満を積み重ねさせる。年代が進むにつれてどんどんそれが顕著になっていく。ひどいもんだよね。ボサ・ノヴァ・ギターの奏法の本にも「あれはいただけない」と書いてあった。これはジョアンのファンの総意だとおもうのだが。でもこれについて誰もやめろといえないのだ。
カエターノ・ヴェローゾがプロデュースした「声とギター」というアルバムがあったがやはりカエターノも言えなかったのがわかる。年齢によって声量が明らかにおちているジョアンだが古い録音ばかりとりあげられるのはこんなところにも理由があるのだと思う。ちなみにおいらはカエターノのかなりの(そう、かなりの)ファンだが、「声とギター」を聴いて「彼にはプロデュースの素質がない」と断言するようになったw
ところでこのアルバム、じつはすごいのだ。なにがすごいかというと、前述のようにジョアンが勝手に長さをかえて弾き語りした音源をアメリカに送ってクラウス・オガーマンがストリングスのアレンジをかぶせたということ。ところどころに予期されない変拍子の小節が挿入される曲で譜面もないのにそれにあうスコアを書くという職人芸!オガーマンはビル・エヴァンスやマイケル・ブレッカーと名盤をつくっているので好きなアレンジャーだがあらためて敬服しました。
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