夏なので、ボサノヴァの話を続けます。
日本にはボサノヴァ原理主義者というひとたちがいる。おいらが命名した。別の言い方をするなら、「ジョアン至上主義」というところかな。
たまに、ボサノヴァをわかったような顔をして「ジョアン以外は認めない」とかいう、ボサノヴァファンがいるけど、そういうひとたちね。
昨日のブログのとおり、ジョアンがボサノヴァの発明者ではない。それ以降のムーヴメントの観点からいえば、むしろ彼は邪道ともいえる(極論だけど)。
確かにジョアンはすばらしいミュージシャンだ。おいらもジョアンの録音は、普通に入手できるものならほぼ持っている。
でも、ジョアンのすばらしさの肯定が他のミュージシャンの否定にはならないでしょ?チャーリー・パーカーはすごい、彼以降のジャズミュージシャンはすべて認めない、というひとがいたら「おい、おまえら、気は確かか?」と思うでしょ。
ボサノヴァ原理主義者は、ジョアンだったらなんでも認める。80年代以降の、あのひとりで勝手に曲の尺を変えるスタイル、おいらは大嫌いだけど、あんなのも認める。まあ、これは好き嫌いの話だからいいか。
それと来日公演で平気で小一時間遅れたときも「ははは、彼らしいよね」と気取ってる。内心は「いい加減にしろよ」と思いながらも。ていうか、ジョアンのことをどれだけ知ってるのかw
ボサノヴァは、あのへたくそなジョビンの歌も含めて、ボサノヴァなのであり、ジョアンの精進料理のような純度の高いものがすべてではない。
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