2016年1月9日土曜日

変拍子の必然性

変拍子をやるプレイヤーが多くなった。しかし、おいらは変拍子には必然性がなければならないと思っている。

例えば、オリジナル曲を書いて、それが変拍子であるからこそスムーズな流れであったり、無理なく美しいメロディが変拍子であったり、とか。不自然に無理矢理変拍子というのは嫌いなのだ。

クラシックも同様で、演奏者や指揮者がその大変さを面白がっていてもつまらないもの不自然なものはダメだと思う。
 
ブルーベック・カルテットの曲は、大体どれも変拍子が自然でバッチリはまっている。さすが先駆者は違う。キャスティリアンドラムスなんて、あまりに自然で変拍子と気づかないくらいだ。え、大したメロディもない曲だろ、ですって?

スタンダードを変拍子で演奏するのは、はっきりいってすごいけどそれだけであることが多い。すごいだけっていうのは、つまり芸でしかないということ。その曲を変拍子でやる必然性が伝わってきてほしいなあと思う。

しかしラビ・コルトレーンによる変拍子版「26-2」を聴くと、芸うんぬんを通り越して本当にすごいと思う。

 




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