LCC、リディアン・クロマチック・コンセプトというやつだ。
濱瀬元彦氏が著書「ブルーノートと調性」のなかでとりあげている。
濱瀬元彦氏が著書「ブルーノートと調性」のなかでとりあげている。
痛快なことに最初の1章がまるまるLCCの批判だw
まったくもってそのとおりということが論理的に明快に書かれている。
なぜそのスケールなのかという根拠が示されていない、というのが批判されている。
しかし、おいらが考えるにLCCはインとアウトの判断をプレイヤーにゆだねており自己責任という認識なのだとおもう。根拠は「本人がそう考えるから」ということになる。
そもそも音楽の理論なんてものは耳できいてどうおもうかというところが原点なのだから(この本の後半もそういう観点からスケールを説明していく)、LCCは別に根拠を示さなくてもよいのかもしれない。
LCCを擁護しているようだがおいらはLCCはきらいだよ。それぞれの音の価値を無視したやりかただとおもうからね。
LCCのとおりにみんなであわせようとすると大きなルールをつくらなければ破たんした音楽になるだろう。それを整備したのがいわゆるモードだとおいらはおもう。
この「ブルーノートと調性」前半はLCC批判と下方倍音列についての説明、後半は論理的にスケールの説明をしている。論理的に使えるスケールを説明しているとされる後半だけど、コードトーンやテンションといったものを無視しているように感じるし結果的にLCCとかわらないと思う部分が多い。
(つづく)
まったくもってそのとおりということが論理的に明快に書かれている。
なぜそのスケールなのかという根拠が示されていない、というのが批判されている。
しかし、おいらが考えるにLCCはインとアウトの判断をプレイヤーにゆだねており自己責任という認識なのだとおもう。根拠は「本人がそう考えるから」ということになる。
そもそも音楽の理論なんてものは耳できいてどうおもうかというところが原点なのだから(この本の後半もそういう観点からスケールを説明していく)、LCCは別に根拠を示さなくてもよいのかもしれない。
LCCを擁護しているようだがおいらはLCCはきらいだよ。それぞれの音の価値を無視したやりかただとおもうからね。
LCCのとおりにみんなであわせようとすると大きなルールをつくらなければ破たんした音楽になるだろう。それを整備したのがいわゆるモードだとおいらはおもう。
この「ブルーノートと調性」前半はLCC批判と下方倍音列についての説明、後半は論理的にスケールの説明をしている。論理的に使えるスケールを説明しているとされる後半だけど、コードトーンやテンションといったものを無視しているように感じるし結果的にLCCとかわらないと思う部分が多い。
(つづく)
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